伊藤若冲に関係がある人物まとめ

「伊藤若冲が好き」
「伊藤若冲について知りたい」

という方におすすめです。

この記事では


◆伊藤若冲に関係があったとされている人物


について紹介しています。

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伊藤若冲とは

京都生まれの絵師である伊藤若冲は、四条通りからほど近く、京の台所といわれる人気観光地【錦市場(しきいちば)】の八百屋【桝源(ますげん)】で江戸時代中期に生まれました。

若冲長男として生まれたので、桝源の当主であった枡屋源左衛門(ますやげんざえもん)の後を継ぐ者として、青物問屋の商人になるために教育を受けました。

比較的裕福だったこともあり、子供の頃から絵画を学ぶことができたといわれており、伊藤若冲は狩野派に絵を学び、また中国の南画や水墨画を模写し、実物写生を行い絵師の基礎となる知識と技術を身に付けました。

家業を継いだ若冲でしたが、相国寺の大典顕常(だいてんけんじょう)和尚や煎茶道の中興の祖である売茶翁(ばいさおう)の影響もあ利、弟に家業を譲り、絵師として生きていくことを決めます。

そこから今の国宝にもしてされるようになった絵を描き始めます。

若冲と大典顕常(だいてんけんじょう)

若冲という名前の名付け親とされている相国寺の館長。

若冲と売茶翁(月海元照)

相国寺の大典顕常(だいてんけんじょう)と同じく若冲の名前に深く関わる人物。

若冲が唯一人物画を書いていたそのモデルとなっていたのが売茶翁。

売茶翁に強く影響を受けていたとされており、売茶翁をまね、晩年は自身を米斗翁(べいとおう)と名乗り、生活を送っていた。

若冲と白歳(宗巌)

白歳(宗巌)は若冲の3歳年下の弟であり、若冲の生まれた錦市場の青物問屋(あおのものどんや)「桝源(ますげん)」の跡取りです。

若冲が40歳の頃に家督を放棄したことで、白歳(宗巌)が「桝源(ますげん)」を切り盛りしました。

若冲と心寂

心寂は末の弟(宗寂)の妻であり、心寂と晩年は、伏見にある石峰寺で過ごしました。

若冲は85歳で亡くなるまで作品造りに没頭したとされており、石峰寺の境内には五百羅漢像(通称:若冲五百羅漢)や若冲のお墓があります。

若冲と大岡春卜(おおおかしゅんぼく)

1829年に出版された青柳文蔵著【続諸家人物志】によると、大岡春卜は江戸時代中期に大阪で活躍した狩野派の絵師で、若冲が師事していた人物といわれています。

若冲と鶴澤探山、青木言明

江戸時代中期の文人であり、コレクターであった木村蒹葭堂(けんかどう)が著した【諸国庶物志】には、若冲は同じ時代に活躍した狩野派の絵師である鶴澤探山(つるさわたんざん)の門下生であり、同門の青木言明の弟子だったと記されています。

若冲と貫名菘翁(ぬきなすうおう)

貫名菘翁(ぬきなすうおう)は、江戸時代後期に活躍した文人学者であり、儒学者です。

貫名菘翁(ぬきなすうおう)は石峰寺にある若冲のお墓の横にある筆型の石碑に、碑文を書いた人物です。